スポーツ選手にとって、怪我は決して避けられない出来事です。
身体の痛みや制限だけでなく、「またあの舞台に立てるだろうか」「以前のように動けるだろうか」という不安や恐れが、
心の深い部分に重くのしかかります。
しかし、多くのトップアスリートたちは、その苦しみを通して「心の強さ」=レジリエンスを育て、
怪我の前よりも成熟した精神で競技に戻っていきます。
そのプロセスには、単なる気合いや根性ではなく、自分の感情を受け取り、丁寧に整えていくメンタルのアプローチがあります。
ここでは、スポーツ心理学の視点と、数々のアスリートの実践から学ぶ「怪我からの回復を支える心のトレーニング法」をご紹介します。
1|怪我という入り口―受け止めることの勇気
スポーツ選手にとって怪我は“避けられないリスク”であり、身体だけでなく、心を深く揺さぶる出来事です。
「また元に戻れるだろうか」「あの舞台に立ち続けられるだろうか」「自分は価値を失ってしまったのではないか」
そのような問いに、心のどこかで苦しんでいらっしゃるかもしれません。
しかし、まず覚えておいてほしいことがあります。 「感情が湧いてくること=あなたがまだ生きている証」 なのです。
焦りや不安、怒りや落胆があること自体を、まずは否定せず、
深呼吸をして「そう、今こう感じているんだな」と自分自身に言葉をかけてあげましょう。
たとえば、テニス界のレジェンドである ラファエル・ナダル 選手は次のように語っています。
彼は「トップの選手ほど怪我で倒れたことがある」と、自らも「本当にこの先プレーを続けられるだろうか」という疑問を抱いたと。
ですから、あなたが今「どうしよう」「もうダメかもしれない」と感じているなら、それは“弱さ”ではなく、むしろ“人として自然な反応”であり、むしろそこからが第一歩です。
✔︎実践ポイント
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怪我をした自身を「だめだ」と否定しないで、「この怪我を経ている自分なんだ」と受け取る。
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感情ノートを用意して、「今感じていること」を書き出す。泣きたければ泣く、怒りが湧くならそれを書いてみる。
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決して「早く元に戻らねば」と自分を急かさない。今は、 “自分に向き合う”ことも回復の一部 です。
2|目標の再設定―「今・ここ」に光を当てる
怪我によって、これまで描いてきた目標やパフォーマンスラインが一時的に揺らぐことがあります。
「前のように動けないかもしれない」「チームに迷惑をかけてしまうのでは」という思いも出てくるでしょう。
そんなときこそ、 “元のゴール”を否定するのではなく、“現状可能なゴール”へと再定義する意識 が重要です。
たとえば、野球界の 大谷翔平選手は、トミー・ジョン手術からの復帰の際、
「まずは60%の力で投げる」という小さな目標から始めたと言われています。
このように “小さな勝利” を積み重ねていくことで、心の中に「できる」感覚が宿っていきます。
「目標」と聞くと大きな夢を思い浮かべてしまいますが、怪我からの復帰期には、
あえて “短・中・長” の3段階に目標を分けるとよいでしょう。
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短期:今週このメニューをクリアする。痛みレベルが〇以下になる。
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中期:来月この段階まで動けるようになる。動きの質が上がる。
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長期:来シーズンまでにこのレベルに戻る、あるいはそれ以上を目指す。
こうした段階的な設定は、メンタルも身体も “戻る/超える” に向けて安定した軌道を描く鍵となります。
✔︎実践ポイント
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リハビリや怪我からの復帰プランを書きだし、上記3段階で目標を設定する。
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「できた」「今日は良かった」という“振り返り”を必ず毎日持つ。これが自信の種になります。
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「できない自分」にフォーカスするのではなく、「できたこと」を丁寧に拾って自分を認める。
3|イメージトレーニングと脳の回路
身体が思うように動かない期間は、つい「動けない自分」「抜けた練習」のことばかりを見てしまいがちです。
しかし、研究でも報告されている通り、 “イメージだけでも脳内の筋神経回路を維持できる” と言われています。
(※この数値は競技/動作によって異なりますが、イメージの力が無視できないものであることを示しています。)
フィギュアスケートの 羽生結弦選手も、氷上に戻れない期間に動作を細部まで頭の中で繰り返していたと言われます。
このように、 身体は動けなくとも、心(脳)は“練習”できる のです。
イメージトレーニングの効用:
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動作の質を再確認できる(フォーム、タイミング、感覚)
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脳が「この動きを知っている/できる」という安心材料になる
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自信の回復に繋がる:身体が動く前に「できるイメージ」が先行していると、復帰時の“怖さ”が減る
✔︎実践ポイント
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毎日5~10分、静かなところで目を閉じ、“理想の自分”“理想の動き”をゆっくりイメージする。
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その際、怪我した部位や不安な動きも含めて、「どう動くか」「どう感じるか」を細部まで描く。
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イメージ中、「痛み」や「怖さ」が出たら、そのまま止めずに「痛みがある、そしてこう動く」「怖い、そしてやってみる」というナレーションを自分にかけてみる。
4|マインドフルネスと呼吸―“今”を感じる力
怪我からの復帰期には、故障の痛み、練習への復帰焦り、他者との比較、未来への不安…と、メンタルが多方面から揺らぎます。
そんなときに、 「今、この呼吸」「今、この瞬間に意識を戻す」 練習は、とても効果的です。
ノバク・ジョコビッチ選手、イチロー選手、マイケル・ジョーダン選手、クリスティアーノ・ロナウド選手、本田圭佑選手など
瞑想を取り入れているアスリートは多くいます。
「マインドフルネス=雑念を排す」というよりも、 『雑念が来ても、それを否定せずに“流していく”』 感覚です。
これは怪我の回復期にも当てはまります。
「またケガしたらどうしよう」「まだ完全じゃないから怖い」という思考が浮かんできたら、
それを “ただの思考”として捉え、ラベル付けせずに手放す 練習をしてみましょう。
✔︎実践ポイント
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1日10分程度、静かな場所で椅子に座り、背筋を伸ばし、目を閉じて5回深呼吸。
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息を吸って吐くときに「あー」と声を出してもよい。
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思考が浮かんできたら、「あ、今こういう思考が出てきたな」と優しく認めて、「手放す」と意図する。
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この習慣により、試合復帰前の“ゆらぎ”や“恐れ”に対する耐性が自然と高まります。
5|支援ネットワークの活用―一人じゃないという安心
復帰の道は決して一人で歩むべきではありません。
怪我による身体的制限、孤独感、時間の停滞…。
そんなとき、 “誰かがそこにいてくれる” という安心感が、心の安定に働きます。
スポーツ復帰支援の分野では、心理的支援が「4つの支援」に分類されると言われています。
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情緒的支援
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情報的支援
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モチベーション(励まし)支援
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物理的/実務的支援
インタビューの中で、あるスポーツ心理支援の専門家は次のように語っています。
“The biggest thing … is just be there. Be positive. Know that athletes are going through a rough time…”
選手にとって「ただ“そこにいてくれる”」という言葉と行動は、想像以上に力になるのです。
たとえば、あなたの近くにいる「家族」「コーチ」「理学療法士」「メンタルコーチ」「チームメイト」。
それぞれが違う役割を持ち、「いつ、どんな支えが必要か」をあなた自身が整理しておくと、
復帰の道は孤立せず、むしろ「共に創るプロセス」になります。
✔︎実践ポイント
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あなたの支援チームをリスト化する:誰がいるか、どんな支えをしてくれているかを書いてみる。
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月に一度、「ありがとう」や「今こういう気持ちです」というシェアミーティングを設ける(オンラインでも構いません)。
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メンタル的不安が大きくなったとき、躊躇せずにメンタルコーチやスポーツ心理士と話をする。
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支援を受けることは “弱さ” ではなく “回復力を鍛える力” です。
6|痛みとの対話―恐れず、蓋をせず
身体が傷つくと、そこには「痛み」があります。
多くの選手はこの痛みを避けたくなったり、無かったことにしたくなったりしますが、
私が多くの選手と向き合うなかで感じるのは、 “痛みとの対話”こそが回復への鍵になる ということです。
体操の金メダリスト 内村航平、何度も重大な怪我を経験しながら、
「痛みを恐れず、痛みを身体のシグナルとして受け止める」ことの大切さを語っています。
痛みを敵とせず、「どう付き合うか」を考えることで、身体も心も成長していきます。
この「痛みとの対話」は、以下のように進めることができます。
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痛みが出た時、「今こう感じている」という言葉を自分にかける。
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その痛みによって「今日はこれができない」と気付いたら、「じゃあ今できるこれをやろう」と切り替える。
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決して「痛み=負け」ではなく、「痛み=今の身体からのメッセージ」と捉える。
この姿勢が、回復のプロセスを “苦しみ” から “学びと成長”へと転換します。
✔︎実践ポイント
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痛み日記をつける:何時、どんな痛みがあったか、どのように感じたかを書いてみる。
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痛みが出た時「この痛みは私に何を伝えてくれているのか」と問いかけ、動き方を選び直す。
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動けない時期でも、「痛みがある中でできる範囲の動き・ケア」を探し、「ゼロ」ではなく「少しでも進んだ」を意識する。
7|焦らない・比較しない―自分のペースを守る
怪我からの復帰には、思った以上に時間がかかることがあります。
そして、その間、「みんな戻っているのに」「自分だけ遅れているのでは」という焦りや比較が心を蝕むことがあります。
しかし、ここで重要なのは “他人のペース” ではなく、 “自分の身体と心が整うペース” を尊重すること です。
トップアスリートも、度重なる怪我からの復帰を経験し、年齢や身体の変化とともに “戻るスピード” が遅くなったことを語っています。
たとえば、前述のナダル選手も「歳を重ねてからの復帰は以前よりずっと難しい」と語っています。
だからこそ、「焦り」を手放し、自分との対話をしながら歩を進めることが、自分らしい復帰を可能にします。
✔︎実践ポイント
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自分が「比べてしまう対象」をリストアップし、それをノートに書き出す。
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次に、「私は私のペースで戻る」と宣言を書き、目に見える場所に貼る。
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毎週「前回より今日できたこと」を3つ洗い出し、自分を認める時間を持つ。
8|怪我という“成長の機会”―視点を変える
最後に、ぜひお伝えしたいことがあります。怪我は、ただの“ロス”ではなく、 “成長の機会”になる可能性を秘めている と。
「怪我をした」と聞くとネガティブな印象がありますが、実際に多くのトップアスリートがそう捉えています。
“痛みを超えて、より強くなる”という道を選んでいるのです。
あなたにも思い出してほしい。
・長年やってきた習慣や身体がストップしたとき、もしかすると“気付けなかったクセ”が見えてきたかもしれない。
・動けないことで“自分を見つめ直す時間”が得られたかもしれない。
・小さな進歩、小さな喜びを感じられた瞬間があったかもしれない。
それらすべてが、「戻る準備」ではなく、「新しい次元の自分を生きる準備」なのです。
怪我という時間は、 “自分を深く知る時間” にもなり得ます。
その意味で、このプロセス自体があなたの強さを育んでいるのです。
あなたへのメッセージ
「もうダメかもしれない」「以前の私には戻れないかもしれない」
それでも、この瞬間にあなたが立っていること、自分と向き合っていることが、何よりの証です。
身体が思うように動かず、チームとの距離を感じ、未来に不安を抱える。
それでも、あなたの心が“動いている”なら、その動きが回復の大地を耕しています。
今日から少しずつ、以下を実践してみませんか?
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感情をじっくり聴き、受け取る。
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自分に合った“今できる目標”を設定する。
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イメージトレーニングで心の準備をする。
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呼吸と“今”に意識を戻す習慣を持つ。
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支え合いを受け入れ、自分を孤立させない。
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痛みとの対話を通じて、自分を成長へ導く。
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他人と比まず、自分のペースを守る。
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怪我を“成長の機会”と捉え、未来への力に変える。
あなたの怪我からの復帰が、ただ“元に戻る”復帰ではなく、 “新しい自分を創る”旅 になることを、私は心から願っています。
そして、あなたのその旅の中で、あなた自身が“最も信頼できる伴走者”であることを忘れないでください。
身体が、動きが、少しずつでも戻ってきたとき、きっと、あなたは「怪我を超えて強くなった自分」に出会っているはずです。